2017年5月4日木曜日

< 「人心」なるもの >

 本来はいま、なによりも近隣の三大国と近接国の状況の問題の方が重大で、その対処が疎かになることの方が深刻であるにも拘わらず、・・・そんなことはどこ吹く風で、揚げ足取りの野党の貧相な連中だけでなく、一部のメディアや評論家と応援団が、本来の払い下げ価額の問題からはずれて“政局”にするな、と紋切型に一見「もっともらしい」反論をしている、・・そんな図柄だ。

しかし、「人心」はまったく違うところにある。
「金持ち」や「権力」「権威」の持ち主には、ゆすり・タカリが引き寄せられ、言い寄って来る、ことぐらいは、社会人の通常の「わきまえ」で、そんな者とは関わらないというのが、「庶民」の「堅実な常識」だ。
 比較較的早い段階で、・・・他人の名前を冠する!??などと、・・それを断るのは当然で、しかしその間の経緯の中で・・、その種の人物や団体であることぐらい「分からない」などという事はあり得ない、そんなものと「付き合い」続けること自体が、すでに「疑問」と捉えるのが、「人の心」というものである。
・・・なぜか?・・・通常の「堅実な常識」「わきまえ」にまったくそぐわないからである。
・・・「カネ」や「口きき」の問題などではないのである。

法的にも何の落ち度もない、という結果になったとしても(かつ、そうあって欲しいが)、・・・もはや、そんな事は人の心の上では問題ではない、・・ウソ\をついて「権威を借りて」自己の利益を図る一種のタカリ屋と(仮に、それを見抜けなかったならば、むしろ尚更のこと)付き合い続けるという姿勢自体が、「バカだなぁ」というほかなくなっているのだ。
 どんなに、その“応援団”がカネの授受や口利きについて法的に問題ない事を「晴らし」てみても、そんなところに人心はもはやなくなっているのだ。

 赤絨緞やメディアや評論家には、そんな「人心」が全く分からないのである。

つまらぬ、まことにつまらぬ事で躓くのは、どんなに「冤罪だ」と云ってみても、いや、冤罪であることが法的に示されたとしても、しかし、他人の名前を冠して事業を進める「意図」が赤らさまで、それを知っていた、・・・けっして騙されていたとは云い得ないのである、・・・トラの威を借りて事を図る「そんな者」との数年にわたる「付き合い」自体が、その本人と周辺の「姿勢」に問題の一端があるのだ、という受取り方は、けっして間違ってはいない。

 一度「なんだ、そんな程度か」との印象を刻み込んだ「人心」は、取り戻すことはできないだろう。

本来の課題に立ち向かうことができない状況となるときが到来する、その「重大さ」を測る局面に移っていくだろう、・・・共謀罪法案は却って、その状況に拍車をかけるものとなる「だろう」、・・「はい、これでおしまい」という風に。

以前にも書いた、物事の経緯は、「本人の所為」に起因するとは限らないのだ。