2017年5月4日木曜日

< 「お蔭史観」あるいは「信奉の歴史」と「歴史の信奉」 >

主義の「右翼保守」と生活する「保守」とがどう違うか?

 「右翼保守」とか「保守右翼」と云うのは、「保守と右翼」でも「右翼又は保守」でもない、それで一体の主義のことである。“普通”に生活しているホンマもんの「保守」である庶民のことを云うのではない。庶民は、主義やら主張やら見解やらの枠外の無限定のただただフツウの生活をしている、だから表\に立たずそっと隠れて棲んでいる保守のことである。頼りにできるのは、歴史だけだとの心得だけを持している。頭は良くないので勉強は苦手だ、それでも、どうということはない。
たとえば、二千余年の神の国などと云われても(とんでもないことを持ちだすように思われるかもしれないが、かつての一国の総理の言だと云われている、・・本当かどうかは分からない)、それは信奉の歴史かも知れないが、頼りにすべき真っ当な判断の基とすべき歴史だと受け取ることは無い、・・・歴史を信奉しているからである。
学者や評論家といった人達のむづかしい論議は、覗いてみたこともないのだが、歴史と云っても、それで小難しいことを何も考えているわけではない、ただ「人はどのように生きて来たか、いまどのように生きているか、これからどのように生きようとしているか」というただこれだけのことだ。何度繰り返し辿り直しても、これしかない、そして、知るところが少ないことの自覚を持している、ということだ。

 こういう根底的な違いを自然に体得している庶民には、「保守右翼」の信奉による歴史に惑わされたりしない。・・でも多くの事を考えさせてくれるから、注視している。
 左翼のことは、反人間的であるからまったく「右翼保守」とは違って対象にしようがない、彼らは歴史を抹消したり捏造したり歪曲する者達だからである、・・何も共産主義政権若しくは実際はそれを「騙る」政権を担う者達に限らない。むろん、その種の事をするのは左翼だけでないが。

 左翼にも右翼保守にも共通している(と見受ける)ことがある、その信奉の歴史というよりも「お蔭史観」と云った方が適切かと思われるその狭窄し逆立ちし熱狂する抜きがたい心性だ。・・・将軍様の、革命戦士の、二千有余年の連綿たる・・、「そのお蔭で・・」と云う風に。みな、最高学府を出たりしている秀才の似非インテリである「大衆」達が産み出したものだ。

「仮に」そういう眼で、マスメディアによって伝えられる事象とそれをめぐって語る人達を眺めると、またいろんな事に気づかされる、そういう効用があるように思われる。